シバタ稔党地区暮らし・営業対策責任者

シバタ稔の経歴

略歴

シバちゃんHISTORY

小1で三和商店街へ

 私は、兵庫県朝来市で兼業農家の次男として生まれました。
 小学校1年の時、父が三和商店街で商売をやるために尼崎へ引っ越してきました。

芸術に目覚めた青年時代

 高校のとき、ゴッホの絵に感銘。
 「自分は何のために生まれてきたのか?好きなことをやるべき」と、以前から興味のあった芸術を志すために上京。
 東京の芸術大学をめざしました。

22才で父の商売引き継ぐ

 家業をつぐために大学を断念。実家に戻り、兄が経営する喫茶店を引き継ぐことになりました。
 当初、接客が苦手でしたが「お客さんの中に飛び込もう」と、聞き上手になることに徹しました。この頃の経験は今、とても役にたっています。

親の代から働きづめ

 惣菜屋で両親と7時から19時まで働きづめの毎日。弁当のまとまった注文が入ると、徹夜近くに。
 尼崎市の国民健康保険料が高くて、父が滞納したこともありました。「一生懸命働いても、よくならない暮らし。貧困は仕方ない」と思っていました。

父の死
「自己責任」の政治に疑問

 ある日、父が倒れて入院。父は医者の指示を守らず、「息子ひとりでは店はまわらない」と店の手伝いに。数日後、父は脳梗塞で亡くなりました。
 「真面目に命がけで生きていても、報れない世の中をなんとしても変えていきたい」と私は父に誓いました。この時の体験こそ、私の原点です。

商店街の組合理事に

 商店街の活気を取り戻したくて、商店街の理事や盆踊りの役員を引き受けました。
 油絵の趣味もいかし、セールの飾りつけやアーケードのデザインなど協力。店主たちからは、「シバちゃん」と呼ばれました。

困っている人のために生きたいと共産党へ

 「困った人を助けてこそ意味がある生き方だ!」――店に来ていた松村ヤス子元市議の姿勢と、生き方に感銘を受けました。
 自民党政治に真っ向から立ち向かう日本共産党の政策に共感して、入党しました。

保険あって、介護なし

 いま私は認知症の母と暮らしています。母は徘徊があり、交番にお世話になり、そのたびに、私が迎えにいきます。
 6万円の国民年金では、母一人で暮らせません。
 家族の力だけではどうにもなりません。特養老人ホームに入所を申し込みましたが、160人待ち。
 8 8 歳の母はとても待てません。
 尼崎市は介護保険料も上がり、県内一高い保険料です。
 弱いものいじめの政治を変えましょう。私は医療・介護の声をしっかり市政に届けます。

原水禁世界大会に参加

 2022年初めて広島の原水禁世界大会に参加しました。日本はいまだに核兵器禁止条約を批准していません。この現実を変えるためには、「今、人類のために何が一番必要なのか」と本当の声をあげていかなければと思いました。

市立幼稚園なくさないで
7千筆の要求を無視

竹谷、長洲、小園の3市立幼稚園の廃園計画が上がり、私は保護者のみなさんと反対運動に取り組み、7千筆の署名を議会に届けました。
 しかし、市議会は廃止する条例に公明、維新、市民グリーンらの議員が賛成し可決しました。

万博に学校行事で、
子どもたちを連れていくな

共産党として市と教育委員会へ申し入れをしました。
 2024年3月、爆発事故が起きていて、メタンガスでまた事故が起こらないか心配です。
市民の声が通らない市議会を変えたい。今度こそ、私を市政に押し上げてください。